『あなたに見つかりたい』

 

蒸し暑い夜だった。

一戸建ての借家に住んでいる俺は、クーラーをつけたまま布団へ転がるように眠っていた。

完全に眠るとまではいかない、意識がまどろみの細波をたゆたい、底へと沈んでいく途中。間もなく彼方へ旅立つ心地良さに、身を委ねている時のことだった。

 

……ブォオオオオーーン

いつの間にか聞こえてきた音が意識を急浮上させる。俺は目を覚ました。

音は外から聞こえる。ドゥルルルルル、という低音をベースにして、定期的に高い排気音が鳴り響く。玄関の前に車が停まっているようだ。

 

「ったく。夜中に人んちの前で停まってんじゃねーよ」

俺は苛立ちながらも瞼を閉じ、車が出発するのを待っていた。

 

まだ聞こえる。そろそろか? まだ出発しない。何やってんだ。トイレ行きたくなっちまったよ。このまま寝たいんだけどな。寝返りを打つ。右へ。左へ。また右へ。まだ聞こえる。お、音が変わった。ようやく行ってくれるか。……排気音。まだ行かねえのかよ。

 

おいおい、いつまでいるつもりだ。もしかして急病なのか? 車の中で意識を失っている? それくらいの理由が無いと、この長時間にわたる居座りの説明がつかねえぞ。

 

俺はとうとう重い体を起こした。トイレに行き、それから玄関を出る。家の前にある道路、街灯の下。クリーム色の普通自動車が、煌々とライトをつけてエンジンをふかしていた。

運転席を覗く。20代半ばくらいの女が、一心不乱にスマホを凝視していた。

 

……いやいや、スマホって何? もしかして、もしかしてだけど、ラインとかネットニュースとかを見ていたの? 夜中に他人の玄関先で、ずっと?

女は光る板に表情を吸い取られたような「無」の顔で、それとは対照的に指先をせわしなく動かしていた。何やらノリノリの音楽も聴こえる。

 

俺は今すぐドアを蹴ってやろうかと思ったが、怒りよりもある種の興味が勝った。

先程から俺は、ドア窓のすぐ外から無遠慮に覗き込んでいる。しかし女は一向に気付かない。これだけ近くにいたら、普通なら気配を感じて振り向くと思うのだが。

 

試しに車の前へ行ってみた。ライトがパジャマ姿の俺を照らす。女は気付かない。俺は手を振ってみた。依然スマホに夢中。ボンネットに手を置き、アキレス腱伸ばしをする。女が顔を上げる気配は微塵もない。

 

こうなると、どこまで気付かれずにいけるか挑戦したくなった。

後ろへ回り、トランクのドアに手をかける。開いた。ゆっくり上げる。その間、女の後頭部は微動だにしない。

 

トランクには傘が置いてあった。俺は傘を手に取り、踊ってみた。大げさに足を上げてステップ。再び車の前方へ。街灯に右手をかけて、左手を体ごと目いっぱい伸ばす。有名なミュージカル映画のマネだ。

そこの女性、一曲いかがですか? しかし女はスマホが最愛のようで、一向に俺を見ない。

俺は傘を戻し、トランクを閉じた。

 

次の段階へ進もう。俺は後部座席のドアを静かに開ける。音楽が飛び出すように耳朶を打った。女は身も心もスマホに奪われており、背後の変化が分からない。

 

これは長期戦になりそうだ。俺は一旦家に戻り、ペットボトルのウーロン茶と漫画雑誌を準備。再び車まで行き、後部座席に乗り込んだ。

ゆっくり、慎重にドアを閉める。その甲斐あって、女に気付かれることなく乗車できた。

いや気付けよ。とツッコみそうになる口を何とか抑えて、シートに腰を沈めた。

 

甘い香りがさり気なく漂う車内は、それなりに快適だった。俺は漫画に目を落とす。音楽に混じって、シュポ、シュポ、という気の抜けたSEが聞こえた。ラインに次々と新規メッセージが流れているようだ。

延々と、いったいどんなやり取りをしているんだ? 俺は気になって画面を覗いてみた。

 

スタンプが乱立する中に混じって「あっきー」だの「ヒロぽん」だの、個人名を表す記号とそれに関する文字が流れる。

事情が分からないし早くて内容が読み取れないが、よくある噂話で盛り上がっているようだ。俺は読書に戻った。

 

雑誌を半ば過ぎまで読んだところで、女がスマホをホルダーに置いた。車が動き出す。動き出してしまった。

俺、どこに連れて行かれるんだ? もしかして女はとっくに気付いていて、その上で俺をどうにかしようとしているのではなかろうか。ちょっと本気で不安になってきた。

 

車は、俺が慣れ親しんだ風景とは違う道を走る。途中で信号待ちがあると、女はその度にスマホをいじった。

俺は怖くなった。バックミラーに映らないよう背中を落としてはいるが、それでも見つかりそうなものだ。つまりこいつは、安全確認もそこそこに人を殺しうる鉄の塊を動かしている。

 

よし分かった。こいつは最後まで気付かない。このまま知らない土地に連れて行かれる前に、俺から挨拶しよう。

 

車は人通りの少ない小道に入る。自宅が近いようだ。流れている歌が、たまたま俺も知っている曲だった。俺は歌った。

「伝えたいのさラヴィン・ユー! 真夏の海にダイビン・ナウ! 溺れるほどにぃ抱きしめ合おぉう、Hey!」

 

車が停まった。硬直する女。恐る恐る視線を上げる。ミラー越しに目が合った。

女が弾かれたように振り向く。俺たちはようやく出会った。

 

沈黙。ノリノリなアイドルソングと車のアイドリングが、他人事のように鳴り続けている。

女は再び電源が入ったようで、素早くスマホを操作。まずい、通報される。

しかし画面に映ったのはラインだった。

 

女がメッセージを打ち込んだ。

『いま知らない男がうしろにのってる!!』

 

「いや通報しろよ」

とうとう俺はツッコんだ。女が「ひいっ!」と悲鳴を上げる。ここまでだな。俺は車を降りて足早にその場を去った。

 

「ふうぅー」

生温い夜風に当たりながら、俺は心底からの溜息をつく。そして曇りがちな夜空に向かって呟いた。

「あー、怖かった」

 

(おしまい)