『ジジババたち』
夕方、とある老人ホームにて。
ここで介護職員として働く俺は、頭を抱えている真っ最中だった。
共同スペースの椅子に座り、机に真っ白なメモ紙を広げて「うーん」と唸るばかり。いやはや困ったぞ。
「兄(あん)ちゃん、どないしたと?」
そんな俺に声を掛けたのは、利用者の山村さんだ。米寿を迎えたが体は元気で、足取りよく歩ける。
軽い認知症と精神疾患はあるものの、よく話すし面倒見がいい婆さんだ。
今も洗濯したおしぼりをハンガーに掛けてくれている。
「いやー、明日のレクリエーションどうしようかと思って」
うちの施設では、午後に毎日レクをやる。カラオケや輪投げなど、ある程度決まった内容はあるのだが、さすがに毎日しているとネタ切れになる。
「山村さん、何かしたいことありますか?」
我ながら丸投げの質問だなーと思いつつ聞いてみた。
「したいことっちゅ-てもアンタ、私ぁそんな分からんよ」
ですよねー。
「そこのベランダに畑でもあれば、皆で野菜作ったりすればいいんですけどね」
俺は現実逃避まじりに詮方ないことを呟く。
「そうたいね。畑はええよー」
「山村さんも家でずっと野良仕事してたんですよね」
「そうよお。ナスやら大根やら色々育てとるよ。あれどうなっとるかいね。見てこないけんね。ちょっと行ってきます」
おっと、日常会話からの流れで帰宅願望が始まってしまった。
「それもいいですけど山村さん、魚釣りなんてどうですか? 明日のレク」
山村さんを引き留めるつもりで言ったのだが、向かいに座る大川さんが反応した。
「魚釣り行けると!?」
車椅子から身を乗り出す大川さん。額から後頭部にかけて大きな幹線道路が走るこの爺さんは、無類の釣り好きだ。
「大川さん、危ねっす」
4年前、交通事故で大腿骨を骨折して車椅子生活になってしまったが、それまでは毎週のように海、川、池と釣り三昧だったようだ。
アジや鯛、アユなどを吊り上げた写真をよく見せてもらう。
「釣りって言っても、本当の釣りじゃないですよ。魚の絵を磁石でくっつけて釣るやつです」
「なんねえ。ほんなんでは面白くないとよ」
大川さんはガッカリして、車椅子に再び腰を沈める。
その隣では、同じく車椅子の小島さんがウトウトしていた。小太りの婆さんで、ご飯のとき以外は大抵目をつぶっている。
「ですよねえ。あんなの僕も子供騙しだなって思いますから」
「あんた、職員がそんなこつ言ったらいかんばい」
いつの間にか浜田さんが歩行器で俺の後ろまで来ていて、俺の後頭部に注意した。大正生まれの貫禄ある婆さんで、ジジババの御意見番だ。
「浜田さん、トイレ行くなら呼んで下さいよ。というか、職員の注意が逸れたのを絶妙に見計らって独り歩きするの、マジで勘弁してほしいんですけど」
「なに言うちょるんね。あんたみたいな若いの、私から見りゃあ隙だらけなんよ」
ニヤニヤ笑う浜田さん。しょうがねえババアだ。
そんな浜田さんに、お家へ帰りたい山村さんが話し掛けた。
「あんたどこ行くね。家帰ると? 私も帰るよ」
「あんたは泊まり! いつも言われとろうや」
浜田さんが強い口調で答える。
「泊まり? そんな聞いとらんよ。私どこも悪いところ無いんよ? なして家に帰ったらあかんの?」
「そんなん言わんと、この若いのに可愛がってもらえばよかばい。この兄ちゃん面白かろうが」
「面白いっちゃ言うても、そういうことやなかと!」
二人が口論になり始めた。この状況、俺としては面白くも何ともないのだが。
山村さんには落ち着いて席に座ってほしいし、浜田さんにはさっさとトイレに行ってほしい。
そして釣り好きの大川さんが、さっきから架空の釣竿を振るって何かを引っ掛けている。それで釣れるのは俺の「何が釣れましたか?」という反応くらいだ。
そのとき気配を感じた。浴室の方から女性職員がこちらに歩いてくる。こちら、というより俺だ。歩く方向も視線も俺に向いている。
手には大きなカゴ。中には乾燥し終わったタオルが一杯に詰め込まれている。それを見て俺は察した。
すれ違いざま、俺は女性職員からカゴを受け取った。女性職員は全く足取りを緩めず、そのまま事務室へ消えていった。
「はあー、今からこのタオルの山を畳まなあかんのか」
大袈裟に溜息をついて、俺はタオルに手を伸ばす。その様子を世話好き主婦の山村さんは見逃さなかった。
無言でタオルを1枚掴み、手早く綺麗に畳む。2枚、3枚と慣れた手つきで、ぐちゃぐちゃのタオルが整えられていった。
「山村さん、いつもありがとうございまーす!」
「こんなの朝飯前よお」
さっきまでの帰りたい山村さんはどこへやら。目の前に用意された仕事へ集中し始めた。
特に笑顔という訳ではない。山村さんの表情は真面目だが、仕事をこなす充足が感じられた。
大川さんはまだ釣りの真似をしている。俺はその様子をじっと観察。タイミングを計る。
釣竿を引いた。今だ。俺は動きに合わせて、タオルを大川さんの方に放り投げた。
釣り上げられたような放物線を描いて、タオルは大川さんの膝に乗った。大川さんはじっとそのタオルを見て、やがて何も言わずに畳み始めた。よしよし。
大川さんの隣では、相変わらず小島の婆さんが夢の世界に飛んでいた。
「んで、浜田さんはトイレですよね」
未だ俺の後ろに立つ浜田さんに確認する。
「あんた、年上の女に向かって『トイレですよね』って、失礼やなかとね」
「あ、すいません。違いましたか?」
「トイレに決まっとろうや! 漏れそうよ!」
「はよ行ってらっしゃい」
俺は浜田さんがトイレに入ったのを確認して、タオルを畳む作業に戻った。
「それにしても、明日のレクどうすっかなー」
手を動かしながら、俺は最初の課題に思考を戻した。
何だろうな。こうやってジジババたちと何気ないやり取りをしていると、それでいいんじゃないかと思えてくる。
ディズニーランドじゃあるまいし、実生活と乖離した舞台装置としての「楽しさ」を提供する必要なんてないんじゃないか。
俺の3倍以上も生きている人たちに。
だからむしろ、職員が楽しみたいことをやればいいと思う。
「俺の楽しみに付き合ってくれ」と言えば、ジジババたちは笑って受け入れてくれる。甘えさせてもらえばいいのだ。
とりあえず「利用者のために、皆さんに楽しんでほしいから」という欺瞞的な標語は掲げたくない。
俺がジジイだったら「そんなのいいから酒の一杯でも飲ませてくれ」と思うだろう。
「やっぱりカラオケかな」
俺はカラオケが好きで、レク担当の時は必ず候補に入れる。X JAPANを歌って、ジジババたちに手をクロスしてもらうよう指導したこともある。
もちろん演歌や童謡など、年寄りに馴染み深い歌も歌う。
「赤いくつう~ はぁいてた~♪」
俺は唐突に『赤い靴』を歌い出した。童謡の中ではこれが一番好きだ。
すると今の今まで寝ていた小島さんが息を吹き返した。
「おーんーなーのーこー♪」
瞼を下ろしたまま、掠れた声で歌う。婆さん、ようやくエンジンかかったか。
それから全員で合唱し、続けて『瀬戸の花嫁』や『天城越え』を歌った。
調子に乗った俺は最終的に「We are エーックス!」と叫び、リーダーの職員から注意を受けたのはいつものオチだ。
(おしまい)