『ミツバチの歌』

 

 

熱気がこびりつく夏が過ぎ、植物たちが円熟色の薄衣をまとい始める季節のことであった。男の子が一人、静かな銀杏並木を歩いていた。

ランドセルを背負っている。そのランドセルには「交通安全」と書かれた黄色いカバー。その上から茶色い土の跡がこびりついていた。

 

特別なきっかけがあったわけではない。彼がクラスメートのけんじ君にちょっかいを出されたのは、夏休みが明けて間もなくの頃だった。

 

彼はぼんやり窓の外を眺めていた。そこへけんじ君が「わっ!」と机の下から飛び出して、彼の頭をワシャッと掴んだ。そうすることに合理的な理由などない。ただやりたかった。けんじ君はそういう性向なのであった。

 

このとき明確に「やめて」と伝えれば、そこで終わっただろう。或いは同じ空気感で返せれば、友達になれたかもしれない。

しかし彼は驚くのみで、その先の反応を返さなかった。腹が立ったから無視しようと思ったのではない。彼の性向として、それが自然な態度だったのである。

 

子供は周囲にある様々なものに働きかけて、その反応を確かめる。自分の行為の結果を体験して、学び、世界を広げていく。

もし自分が「やったこと」に対して特段の反応が無ければ、どうするか。反応があるまで繰り返し「やる」のだ。

 

けんじ君は、良くも悪くも無邪気に彼をからかい続けた。いつしかそれは、けんじ君の中で宿題と同じように「やらなくちゃいけないこと」になった。けんじ君の友達も、けんじ君と同じことをした。

こうして男の子は、よく分からないうちに辛い思いをするようになったのである。

 

この日も彼は色々なことをされた。朝、下駄箱のところで後ろからランドセルを引き倒されて盛大に転んだ。休み時間、廊下ですれ違うたびに脇腹へチョップされる。昼休みにはけんじ君のグループが、わざわざ彼の机で消しゴムを弾くバトルをする。消しゴムを、わざと彼の顔に飛ばすこともあった。

 

そして帰りには、通り道の公園でけんじ君たちが待ち伏せていた。「砂かけババア!」と叫びながら、砂場の砂を投げつけるけんじ君。何でそんなことをするのかも分からないし、どこにババアがいるのかも分からない。とにかく彼には、けんじ君が理解できなかった。

 

彼は一刻も早く離れたかった。関わりの外側に行きたかった。例えば、あの場所のような。彼には、帰り道の密かな楽しみがあったのである。

 

公園の横を過ぎてまっすぐ歩くと、色づき始めた銀杏が並ぶ通りに出る。甘みと苦みが混じった独特の匂いが鼻をつく。

道は左右に分かれていた。右へ行けば自宅へと続く道。しかし彼は左へ足を向ける。その道は山へと続いていた。

 

銀杏の匂いと別れ、いつしか上り坂に。舗装された山道を外れて、黒々とした土を踏みしめ歩く。太陽はまだ高いのに薄暗い。足を前に出す。地面がある。手を伸ばす。葉がざらりと肌に擦れる。木々のざわめき。鳥の声。草陰の蠢き。彼を取り巻く世界の感触を確かめながら、獣道を進んだ。

 

彼にとっては、それなりに長い時間であった。1本の大きな木が立っていた。

それなりに齢を重ねた大木は、幼い彼に迫力を感じさせた。彼は一度見上げた後、ある一点を見つめる。木の根元近く、ちょうど彼の目線の高さに洞があり、そこにミツバチの巣があった。

 

元気よくブンブン飛び回る働き蜂たち。彼はゆっくり近づき、中を覗き込んだ。光が届く限り、洞の最上部から底辺近くまで、無数のミツバチが一杯に動き回っている。黄色い六角形の部屋が何千と連なる、薄い板状の巣。それが5~6枚も並び、洞の中を満たしていた。

 

ミツバチの家は今日も賑やかだ。そのことを確認すると、彼はランドセルを置いて木の根元に腰を下ろす。頭を膝に埋めて目をつぶった。

ウウゥンと、くつろぎ気分で飛んでいた蜂たち。しかし突然の来客に警戒し、ブゥンブゥンと羽を鳴らして次々に巣から出てきた。

 

彼の周りを飛び交う蜂の群れ。小さな羽ばたきが集まり、大波となって彼の耳に打ち付ける。やがていつも来るヒトの子だと分かったのか、彼への関心が減り、蜜集めの通常業務に戻っていった。

 

誰に教わったわけでもない、遥かな昔より続くミツバチたちの営み。その傍らに彼は背中を預けていた。

 

言葉はいらない。何も要求されない。分からないことに怯える必要もない。この小さな生き物たちは、ただ生きるために生きている。その羽音が伝える、小さくも確かな鼓動。彼は耳で、肌で、背中で、それを感じていた。

 

ミツバチの羽音。彼を取り巻く音。音。音。重なり、或いは解けて、膨らんだり小さくなったり、鋭かったり柔らかかったり。それは彼だけが知る歌。いま、彼の世界は歌で満たされていた。

 

ずっとここにいたいと思った。実際に彼はいつまでも、いつまでも、木陰が伸びて宵闇が迫り、ミツバチたちが仕事を終えて続々と巣に帰っても、ずっと座り込んでいた。

 

 

足音が聞こえた。地面を叩くように確かな足取り。その音に込められた感情を、彼はすぐに理解した。

「あんた、まだここにいたんね!?」

刺すような甲高い大声。彼の世界が決定的に砕かれる。彼は顔を上げた。

 

少し離れた場所に、制服姿の少女が立っていた。腰に手を置き、やや前傾でしかめっ面を突き出し彼を睨む。歳が一回り近く離れた、彼の姉であった。

「さっさと帰るよ。もたもたしてっと、ハチもろとも殺虫剤まみれにしちゃるけんね!」

くるりと踵を返す姉。そのまま来た道を歩き出す。弟がちゃんと来るかどうか、振り返りもしない。彼はランドセルを背負い、姉の背中を小走りで追いかけた。

 

山道を下りて、銀杏並木へ戻る。姉が口を開いた。

「なして私がこげな面倒みなあかんの? あんた放っといたら私が怒られるんよ。この辺くさいのに。あんた、いつもあそこで何しとるん?」

彼は答えられない。あの場所で感じる充足を、言葉で伝えるすべを持っていなかった。姉が溜息をつく。

「あんた見とると、いじめとぉなる奴の気持ちわかるわあ」

それから姉は、初めて振り返った。

「さっき米びつ見よったら、ゾウムシの幼虫が湧いとったんよ。米に糸引いとって、キモくて食べきらんわ。そん糸の部分だけ集めて炊いとるけん、あんた食べりよ」

彼は姉の顔を見上げた。目は鋭いままに口角を吊り上げた笑顔。いかにも性悪く楽しんでいるようであった。

 

姉はいつもこうだ。何かにつけて意地悪をする。今も、どうしてわざわざそんなことを言うのか分からない。いじめたくなる気持ちなんて、さっぱり分からなかった。

彼が下を向くと、姉も顔を戻した。それきり振り向くことはなかった。

 

夕日に色づく銀杏の下を歩いていると、町内スピーカーから音楽が流れた。夜の気配が姿を現す狭間の時。赤い空に反響する切なげなメロディーが、人々を家路へと掻き立てる。

 

 

とーおきぃーやーまにぃー ひーはおーちてー

 

 

不意に聞こえた歌声に、彼は顔を上げた。姉が歌っている。洗練された声ではない。耳で音程を取っている風はなく、歌いたいように歌っているだけである。

その歌声が、彼に不思議な心持ちを与えた。素朴で、伸びやかで、気ままで。あるがままの音を奏でていた。

 

歌がそよ風となり、彼の頬を撫でる。胸の奥へ染みこんでいく。

美しいと、彼は感じた。夕日の色に音を混ぜたら、こんな歌になるのだと思った。

 

姉の手を見る。何となく。自分でもよく分からないけれど、何となく手を繋ぎたくなった。でも手を伸ばしたところで、振り払われるだけだろう。

それでも繋ぎたい。けれど腕が動いてくれず、手はランドセルの紐を握ったままであった。

 

「冬んなるとなぁ」

唐突に声が降ってきた。歌声が止み、姉が話しかけていた。相変わらず前を見ているので、彼に話しかけたのか判然としない。それでも彼以外に話す相手はいないから、彼に話しているのだろう。

「花がなくて食いもんが減るけん、ミツバチも気が立つみたいなんよ。今は『なんや人間の子ぉがおると』くらいに思っとろうけど、冬んなったら刺されるかもしれんとよ」

 

姉の話を聞いて、彼はキョトンとした。言葉の意味は分かる。けれども、どうして姉がそんな話をするのか。どうしてそんなことを知っているのか。分からない。やっぱり姉はよく分からない。

 

分からないけれど、その言葉は、彼の腹底にスーっと下りていった。暖かいミルクを飲んだような安らぎがあった。

 

彼は胸がいっぱいになった。いっぱいになって、零れた気持ちが彼の手足を動かした。

姉の隣へ。そして小さな手で、姉の手を握った。

 

柔らかくて、すべすべして、少し湿っていた。姉はもちろん握り返さなかったけれど、振り払うこともしなかった。

彼はキュッと手に力をこめる。伝わる温もりは、どちらの手から来るものなのか。

どちらでも構わない。姉と手を繋いでいると、温かかった。落日に溶けた夏の残り火が、その手を包んでくれるようであった。

 

ぷぅん、とささやかな空気の振動。振り返ると、一匹のミツバチが山へ飛んでいくところである。今まで彼の背中にくっついていたのだ。あのミツバチも、自分の家へ帰るのだろう。

彼は歩きながらも、今や遠くにある山を見つめる。赤く照らされた無数の木々。内側で膨らむ生命力が、間もなく燃え上がろうとしていた。

 

彼は再び前を向き、繋いだ手に感じる心のありかを辿る。見上げた姉の横顔は、夕日に輪郭がぼやけてよく見えなかった。

 

明日もまた山へ行こう。彼はそう思った。またミツバチの歌を聴いて、自分だけの世界を楽しもう。これからもずっと。その度に姉から意地悪なことを言われるだろうけれど。それでも、ずっと。

 

……冬になるまでは。

 

彼は本当に、ミツバチが好きなのであった。

 

(おしまい)